長崎市の平和公園にそびえる平和祈念像は昭和30年(1955年)原爆投下10周年を記念して建立されたもので、作者は南高来郡南有馬町出身の彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう:1884-1987)翁によるものです。
翁は東京美術学校、現在の東京藝術大学を卒業後、彫刻家の道に進み、男性の健康美を表現する作品を次々と発表します。
大正時代、文展(文部省美術展覧会)の常連出品者となり、その後は帝展(帝国美術展覧会)の審査委員、東京美術大学教授さらには帝国美術院委員を歴任。
当時の作品で国会議事堂内にある板垣退助像は憲政の神様といわれた尾崎顎堂が称賛したほどでした。
昭和25年(1950年)長崎市は翁に原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑作成を依頼。
しかし、翁は記念碑ではただの記録にしかならないと考え、同じ長崎県人として悲惨な戦争をなくし世界平和を祈るため一歩進んだ記念碑を希望。
そして彼の意見が受け入れられます。
しかし完成までの道のりは険しく技術面や予算面と問題が山積。
一つ一つ多くの人々の協力で解決するのです。
さらに非難中傷も起こり迫害が激しかった事は意外に知られていない事実です。
そうした苦労の末、昭和30年8月8日、現在の姿が誕生するのです。
像の裏側の作者の言葉には翁の平和に対する想いが彫られています。
皆さんもぜひ、像の裏側までご覧になって下さい。
当時、翁の長崎滞在の際、お世話をした一人が私の祖母で、それからは家族的なお付き合いをするようになり、私などはただの髭の生えた優しいおじいちゃんとしか印象が残っていません。
そんなある日、祖母が平和祈念像は誰をモデルにしたのかと尋ねたときがありました。
翁は迷わず特にないと答え、もうモデルを映すことより自分の主観を大切にし、得意とする若い男性の健康美を追求したいと述べられました。
文:山口広助
※この文章は2004年に長崎新聞『うず潮』に掲載されたものです。
長崎県南有馬町出身。
東京美術学校卒業後、彫刻家の道に進み、大正時代に文部省美術展覧会の常連出品者となり、その後は帝国美術展覧会の審査員、東京美術大学教授、帝国美術会員を歴任。
長崎市より原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑作成を依頼され、原爆落下10周年の前日、昭和30年8月8日に平和祈念像が除幕。
当時、北村西望の長崎滞在の際、丸山の料亭・青柳を拠点として利用していました。